コーラ白書
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コーラと第二次世界大戦

中本 晋輔

コーラの大まかな歴史の流れについては以前の連載「コーラの歴史」で述べた。コーラの意義や各社の戦略が時代によって大きく変わってきた様子がご理解頂けたと思う。

今回はその中でもコーラ史に大きな影響を及ぼした事件「第二次世界大戦」にスポットをあて、その時代のコーラの肖像を詳しく紹介していきたい(註1)。

★ ★ ★

1941年12月7日、日本軍のパールハーバー奇襲によりアメリカ政府は本格的な参戦を決定した。「第二次世界大戦」の勃発である。この4年に及ぶ消耗戦はアメリカだけでなく世界のコーラ情勢の大きな転機となる。

当時コカ・コーラはすでに創業50年以上の老舗で、名実ともにアメリカ飲料業界のトップの座に君臨していた。海外進出も積極的に推し進めていたが、カナダ・キューバ・ドイツ以外の地域では苦戦を強いられそのブレイクスルーを模索していた。一方ペプシコーラは16オンスボトルのヒットで会社の建て直しに成功、コカ・コーラのライバルとして急速に台頭していた。またRoyal CrownやRED ROCK COLAなどの第三勢力も大不況を乗り切り、シェア拡大のチャンスを窺っていた。戦争が起こったのはそんな時代であった。

コカ・コーラの決断

「戦争」という大変化にいち早く対応したのはコカ・コーラの社長、ロバート・ウッドラフであった。彼は開戦直後に次のような特令を発している。

「我々は軍服を着た全ての兵士が, どこで戦っていようと, また我が社にどれだけ負担がかかろうと, 5セントの瓶入りコカ・コーラを買えるようにする。」

これにはウッドラフの計算があった。コーラの命である砂糖は重要な戦略物資であり、ひとたび戦争がはじまればその流通は政府によって厳しく制限されてしまう。これまでどおりコカ・コーラを生産するには、コカ・コーラが戦争に必要だと政府に認知させるしかないと考えたのである。

そこで彼はワシントンに有能な部下を派遣して、様々なかたちで政治家たちにコークの必要性をアピールした。陸軍でのコカ・コーラ人気も追い風になり、1941年1月に政府はコカ・コーラを軍需品として正式に認可する(註2)。ただし対象は軍に納める製品に限られ、一般向けのコークは他の飲料と同様厳しい砂糖の規制下に置かれることになった。このため戦争が激化するにつれ、アメリカ国内でのコカ・コーラの入手はどんどん困難になっていったのである。

アイゼンハワーとT.O

当初政府はアメリカの工場ら前線へコカ・コーラを輸送していたが、費用がかさむことから1942年3月には現地で生産する方法に転換した。前線の後方には政府出資による工場が建設され、そこにコカ・コーラ社の社員が派遣され生産にあたった。この戦地の工場で働く社員は軍から技術顧問(T.O)としての地位を与えられ, "Coca-Cola Colonel(コカ・コーラ大佐)"の愛称で親しまれた。

かくしてコカ・コーラは兵士達の間で圧倒的な支持を得たが、その中でも特に熱狂的だったのが北アフリカ戦線の連合国軍最高司令官、ドワイト・D.アイゼンハワーであった。コカ・コーラが兵士の士気の維持に必要不可欠と考えた彼は43年6月、米国政府に次のような要求をしている。

「コカ・コーラ300万本を送れ。また一日20000本コカ・コーラを生産できる規模の工場を10箇所に建設してもらいたい」

これを聞いたウッドラフは辣腕のT.O.アルバート・トムフォードを現地に派遣、同年12月には北アフリカ戦線にコカ・コーラを供給するシステムを完成させたのである。

この様子はLIFE 1943年12月号に掲載されたコカ・コーラの一風変わったクリスマスの広告からも覗う事ができる(上写真)。この年コカ・コーラは題材に恒例のサンタクロースではなく戦場のクリスマスの光景を採用している。サンタに変装する兵士の様子を生き生きと描き出したHandbomの名作の一つであるが、その奥に見える白亜の建物と12月には眩しすぎる太陽は北アフリカの光景である。

広告キャンペーン

戦争で大きな利益を上げたコカ・コーラは、アメリカ国内で積極的な宣伝活動を開始する。ただその内容はこれまでのような購入を促すものでなく、コカ・コーラと兵士達との繋がりを強調したものとなった。当時国内ではコカ・コーラが品薄状態で、販売数も制限されていたのだからこれは当然といえる。

広告のトピックは戦争の進展とともに変化した。1943年10月には中国に展開していた義勇軍「Flying Tiger」(註3)をモチーフにしたものが登場[写真]、連合国軍の一員である中国との友好関係を強調した。実際はフライングタイガーは日米開戦の直後に解隊されているが、当時彼らは国民的英雄として扱われていた。

太平洋地域での本格的な反撃が始まった1944年には海軍の兵士を扱ったものが掲載された。8月に掲載されたこの作品は「geedunk stand」と呼ばれた戦艦内のソーダファウンテンの様子を描いたものである。(この施設の存在により海軍の兵士はコカ・コーラに関しては陸軍よりずっと恵まれた環境にあったという)手前にはファウンテンで働くT.O.の姿も描かれており、当時の機材や実際の活動の様子を知ることのできる貴重な資料にもなっている。

またNational Geographid1945年8月号には"Checkmate"と題された広告が掲載された[写真]。説明によると日本の降伏直後に出版されたこの作品は、戦争が終わり出撃のなくなった兵士達がチェスに興じている姿とある。しかしこれは同時に日本に対する「チェックメイト」であると深読みすることもできる(これが8月中旬に発行されているということは、少なくとも7月には絵の原案は完成しているはずである)。いずれにせよコカ・コーラは広告は市井の関心を見事に映し続けたのである。

ウォルター・マックの戦い

政府とともに戦争を乗りきったのがコカ・コーラであれば、政府と対立しながら道を切り開いたのがペプシであった。軍事物資に認められたコカ・コーラと違い、ペプシには開戦まもなく砂糖合理化の波が襲いかかってきたのだ。砂糖がなければペプシは作れない。新鋭の社長ウォルター・マックは砂糖を求めて文字通りアメリカ中を東奔西走する。

開戦直後、マックは国内の様々な業者を通じて砂糖86,000トンを購入した。しかし砂糖の合理化が始まると政府はこれに介入し、そのうち半分を持っていってしまった。国内での砂糖供給の目処が立たないと分かるやマックは今度はキューバに目をつける。キューバは当時から砂糖のプランテーションで知られ、そこの農場を買い取って砂糖を供給しようと考えたのである。しかしここでもアメリカ政府が立ちはだかる。政府は合理化を理由に、砂糖の輸出入を全面的に禁止してしまったのである。

これで万事休すかと思われたペプシだが、マックは諦めなかった。彼はメキシコに飛ぶと、米国との国境の町にシロップ工場を設立したのだ。当時砂糖の輸出入は禁止されていたが、シロップまでは規制されていなかった。彼はこの盲点を突いて、ペプシのボトラーへ砂糖を供給するシステムを作り上げたのである。このメキシコ産のシロップは「El Masquo」(註4)と呼ばれた。これが実際どのようなものであったかは不明だが、PEPSI発行の"PEPSI 100 Years"の中に「ペプシが不味くなったという人もいた」という記載があるところを見ると質は決して高くなかったようである。

「高カロリーのペプシを飲もう!」

コカ・コーラと同様ペプシも戦時中に宣伝の手を緩める事は決してなかった。むしろ彼らは以前にまして大々的に広告を掲載している。右は1943年に雑誌に掲載されたものである。この"American Energy will win"と題された広告は当時の一般的な手法で描かれたているが、アプローチがなかなか興味深い。

「エネルギーは戦艦や爆撃機や戦車を作るのに必要。(高カロリーの)ペプシは士気を高めます」

つまりこの広告ではペプシのウリは「カロリーが高いこと」なのだ。説明の横には様々な食べ物とのカロリー比較がなされており、ペプシのエネルギーがいかに高いかを強調している[写真]。Diet PEPSIがもてはやされる昨今では考えられない戦略だが、当時はこれがごく普通に受け入れられたのだろう。比較対象が牛肉でなく羊肉なのがポイントだ(註5)。

この頃PEPSIは新聞にも積極的に進出している。漫画家Otto Soglowは1942年から46年にかけて新聞にペプシの広告用の4コマ漫画を書いている。また彼らは一枚のイラスト(もちろんPEPISが入っている)の面白いタイトルを募集するという懸賞キャンペーンも行っている[写真]。最優秀の賞品は現金ではなく$25相当のWAR BOND(戦争債)であるあたりがいかにも戦時中らしい。当時政府は戦費調達のため戦争債を積極的に売り出しており、コカ・コーラも「勝利のために戦争債を買おう!」という広告を打ち出している。

また戦時中のペプシのアクションで忘れてはいけないのが「PEPSI CENTER」である。マックはコカ・コーラの独壇場であった軍の飲料市場に喰い込むため、ニューヨーク・ワシントン・サンフランシスコに大規模なカフェ「PEPSI CENTER」を設立したのだ。兵士であればここでは無料でペプシコーラが飲め、サンドイッチとハンバーガーを5セントで買う事ができた。当時ジュースが1本5セントだから、これはマクドナルドの平日並だ。この他にもシャワーや談話室、家族への代筆など様々なサービスが揃っており、当時かなりの兵士がここを訪れたようである。

これら様々な戦略が奏効して42,43年と売上をなんとか維持したペプシだったが、長引く戦争の影響は思いのほか深刻で44年以降は大幅な減収に転じる。しかしウォルター・マックの尽力によりペプシはボトラーを一社も倒産させる事なく戦争を乗り切るという快挙を成し遂げたことも強調されるべきである。

平常心のRC

戦争中ペプシのように積極的に行動して苦境を打破した企業は稀で、多くの清涼飲料会社は嵐が通り過ぎるのをじっと待っていたようだ。当時から米国で第三位のコーラシェアを持つRoyal Crown Cola などはその典型で、同社発行の社史「Our Story」はこの時期を次のように述べている。

「何千人もの従業員が軍に加わり、製造に必要な材料のほとんどが不足した。会社もボトラーも行動を控えた時期であった」

つまりRCは、じっと我慢して嵐をやり過ごしたのである。

困難な状態が続いたRC社でも、雑誌の広告だけは掲載しつづけた。これも他社と同様売上を伸ばす目的ではなく、人々に忘れられないための策だったのだろう。ただRCが他社と違うのは、その広告の中に「戦争臭さ」を積極的に取り入れなかった点である。戦前RCは著名な俳優や女優を広告に起用しており、戦争中もその路線を貫いたのである。

右は1943年に掲載された同社の広告である。これは兵士が登場する数少ない作品の1つだが、ここでの主役は彼らではなく女優マリア・モンテズである。説明によると彼女はスタジオで"shutter-bugs(カメラフリーク)の兵士にポーズを取っているところらしい。この非常事態に何してんねんっ! とツッコミを入れてしまいそうな腰砕け作品である。

このほかにもマリアがコーラの比較テストでRCコーラを選んだとか、映画撮影(註6)のあいまにRCを飲んでるとかなどが色々と書かれていて、コカ・コーラで主役を演じた兵士達の存在意義は限りなく低い。唯一戦争に関連しているのは一番下に書かれた戦争債購入を促すメッセージだけである。この広告に宣伝効果はあったのだろうか・・・・。

神話の完成

ここに興味深いデータがある。戦争の終わった45年から49年にかけてコカ・コーラが急激に売上を伸ばし、逆にペプシの業績が落ち込んでいるのである。砂糖の規制は終戦と同時に解除されており、コカ・コーラの優位が既に失われているこの時期に何故コカ・コーラだけが売れたのだろうか。

この原因は1000万人とも言われる帰還兵である。彼らにとってコカ・コーラは共に戦った「戦友」であり、すでに一飲料を越えた存在になっていたのである。兵士の中には配給されたコカ・コーラを飲まずに持ち歩いていたものも多かったし、従軍記者は手記の中で「コカ・コーラを握って死んでいるG・Iをたくさん見た」と述べている。また先述のアイゼンハワーは、後に大統領になっても公の場でコカ・コーラをボトルで飲んでいたという。

1945年12月にNational Geographicを飾った広告"Christmas Together(クリスマスを共に)"には、クリスマスを家で過ごす帰還兵の姿が描かれている。家、愛する妻と子供、そこには彼が命をかけて守ったものの姿がある。そして銀のトレーに載せられたコカ・コーラが、戦争が終わったことを告げている。コカ・コーラとは、戦場という「非日常」と、守るべき「日常」との絆であったのかもしれない。

★ ★ ★

戦後アメリカ政府は各地の工場をコカ・コーラに譲渡し、コカ・コーラは労せず世界各地へ進出を果たす事になった。またコカ・コーラ以外で唯一健闘したペプシはコークの単独ライバルの地位を不動のものとし、反攻のへむけて着々と準備を整えていた。戦後のコーラ史はこの2人の勝者達によって綴られていくことになる。

参考文献

  • "For Fod, Country and Coca-Cola"  Mark Pendergrast著
  • "THE FIRST HUNDRED YEARS" Coca-Cola編
  • "PEPSI; 100 Years" Bob Stoddard著 PEPSI編
  • "Royal Crown Company, Our Story" Royal Crown Co. 編
  • "コカ・コーラの秘密" 田口 憲一 著
  • その他、各社の広告など

(註1)続くといいですね、この企画。

(註2)これは特別珍しい事ではなく、チョコレート"HERSHEY'S"もこの時期同様に軍需品として認められている。

(註3)日中戦争時に中国に展開していた志願兵による航空部隊。彼らの戦闘機は鮫の口がデザインされていることで有名である(絵参照)。日米開戦直後に零戦によって蹴散らされてしまった。

(註4)本によっては「El Masco」とするものもある。どういう意味かは知らない。

(註5)一般的に羊肉は牛肉よりもカロリーが低い

(註6)「COBRA WOMAN」という映画に出ていたらしい


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