コーラの歴史 第7回 ペプシ・ジェネレーション
中橋 一朗

コカ・コーラの世界戦略

2回の世界大戦を通じ、コカ・コーラの世界進出が本格化したところまでは、 前回述べた。 コカ・コーラ社はその後も世界各地で瓶詰め会社と契約し、 販売地域を増やし続けた。 しかし、ここでも歴史は繰り返される。 世界各地でコカ・コーラに対する反対運動が展開されたのである。

ひとつは、アメリカに反発する共産主義の動きである。 当時のイデオロギー対立の中で、 コカ・コーラはまさに「資本主義のシンボル」だったのだ。 それに当時のアメリカ人の浪費的で傍若無人な態度は、 共産主義者ならずとも鼻持ちならない点があったようだ。

共産党の勢力が大きかったフランスでは、 アメリカの象徴であるコカ・コーラが普及すればフランスの伝統的な文化を損ねかねない、 という趣旨で反対運動が起こった。 特にワイン業者、ミネラルウォーター業者などの競合業者は、 これを「コカ・コロナイゼーション」(コカ・コーラによる植民地政策)と呼んで警告した。

また、例のごとくコカ・コーラに対して否定的な噂も多かった。 以下に実例をあげよう。

  • コカ・コーラを飲むと白髪になる(イタリア)
  • コカ・コーラの工場は実は原爆工場だ(オーストリア)
  • コカ・コーラは豚の血と肉でできている(エジプト)
  • コカ・コーラを飲むと歯が抜ける(フィリピン)

しかし、コカ・コーラ社はこれを絶妙なやり方で切り抜けた。 彼らはほとんど何もしなかったのである。 派手な動きを見せず、ただ淡々と地元の瓶詰め工場とフランチャイズ契約を結び、 新しい工場を建設し続けた。 センセーショナルな噂というのはそのうち静かになるものだし、 コカ・コーラで儲ける人が多くいる限り、 その国がコカ・コーラを否定する理由なんて特にないということを、 ロバート・ウッドラフを初めとするコカ・コーラ社の幹部はよく知っていたのである。

ペプシ・ジェネレーション

海外市場では順調だったコカ・コーラであるが、 1950年代になると、アメリカ国内では静かに業績が伸び悩みはじめた。 登場以来ずっと同じスタイル − 6オンス(180ml)のホブルスカート瓶、たった5セント − を守り続けていたコカ・コーラを、 伝統にとらわれない(そしてなりふり構わない)ペプシが三度、 追い上げはじめたのである。

ペプシはまず、コークと競合しない次の2つの市場で成功を収めた。 1つは、今ではお馴染みのカップベンダーによる販売。 これは当時としては最新鋭の自動販売機であった。 2つ目は、 スーパーマーケットでのファミリーサイズ(26オンス、約780ml)の販売である。 これらはいずれも、 グラスと6オンス瓶のみでの販売に固執するコカ・コーラ陣に確実な打撃を与えたようである。

次にペプシは、効果的なテレビ広告で売上げを伸ばした。 最初ペプシは「安物、つまり偽物」というイメージをぬぐうため、 「ソシアブル(社交的)」をキーワードに上流階級をイメージしたCMを放送した。 しかしこれが効果を上げなかったため、 改めてペプシの購買層を分析した結果、 主な顧客が20台前半までに集中していることがわかったのだ。 そこでペプシは「ペプシ・ジェネレーション(ペプシ世代)」という新しいコピーを考案し、 これが「クールで都会的」な新しいペプシのイメージを確立したのである。

スーパーマーケットでの売上げを順調に伸ばすペプシの前に、 もはやコカ・コーラも無策ではいられなくなった。 そしてついに1955年2月、コカコーラは26オンス(780ml)のファミリーサイズ、 12オンス(360ml)と10オンス(300ml)のキングサイズを試験販売する。 ついにペプシはコカ・コーラが「敵」と認めるところとなったのである。 ついに近代的なマーケティングを駆使した「コーラ戦争」が幕を開けた。


[コーラ四季報98年4月号]
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