コカ・コーラ, 戦場へ行く
中橋 一朗

様々な困難を乗り切ってアメリカンドリームを実現したコカ・コーラ。
経営者の世代交代とともにさらに世界へと進出していく...

ロバート・ウッドラフの戦略

コカ・コーラをアメリカでもっとも普遍的な清涼飲料にした男 エイサ・キャンドラーは, 1924年末, ついにこの世を去った。 コカ・コーラの「ボス」の座はロバート・ウッドラフなる男が継ぐことになった。

ウッドラフは大銀行家の息子で, セールスマンとしての才能に恵まれ, しかも「謎の」男だった。 身長は180センチ程度であったが, 強い存在感のせいで実際よりずっと高く感じられた。 また, 彼は1冊の本も読み通したことがないし, 手紙は2枚目からあとは部下に読ませて内容だけを報告させたという。 とにかく, この変わり者のボスには独特のカリスマがあったようで, コカ・コーラの営業マン達はこの男に絶対の忠誠を誓い, その評価を得ようとしたようだ。

ウッドラフは「神聖なるコカ・コーラ」社の伝統を引き継ぎながら, 様々なマーケティングの改革を行った。 コカ・コーラはこれまでにも様々な攻撃を受け, それに正面から戦ってきたが, ウッドラフは攻撃的な言葉を避け, 人々に争いを忘れさせることに成功した。 この飲み物には世界を揺さぶるような重要性は何もない。 ささやかな, 人生をほんの少しリラックスした楽しいものにする手助けをするだけだ, と。 1920年代の発展経済の疲労感の中でこの方針は成功を収め, コカ・コーラに対する攻撃ムードは急速に沈静化した。 現在に続く "Always, Refreshing" の伝統はこの時期に端を発しているようである。

さらにウッドラフはコカ・コーラの標準化を強力に推進した。 コカ・コーラは普遍的な飲み物であり, そのためには「いつでも, どこでも同じ味」であることが重要だったのである。 全国各地の瓶詰め業者を回り, その衛生管理や品質管理を徹底させた。 コカ・コーラ社の指示に従わない瓶詰め業者は販促金の減額などの手段によって 言うことを聞かされた。

また,ウッドラフはヨーロッパを中心に海外への進出を再開した。 かつてコカ・コーラはヨーロッパでの製造に失敗し, 大きな損失を出したことがあった。 その原因は水質, つまり水がアルカリ性であったためだったのだが, この失敗以来コカ・コーラ社は海外進出について及び腰だったのである。 また, 文化と言葉の壁も厚かった。 しかしウッドラフは世界の27ヶ国でコカ・コーラの生産を開始した。 中には非常に品質の悪いものもあったが, ウッドラフとしてはまず満足のいく結果だったようである。

大恐慌時代とペプシの復活

1927年の終わり, ウッドラフは社長に就任してからの5年間を満足して振り返ることができた。 社の負債は0にになっており, 1000万ドルの黒字に加えて500万ドルの予備費まであった。 しかしウッドラフはいずれ株式市場が暴落するのを予期しており, 1928年の始めには所有していたコカ・コーラ株6600株を密かに売却した。 かくして1929年10月29日, 株価は大暴落した。 しかしコカ・コーラ社の株価は上昇を続け, ウッドラフが持ち株を買い戻したときには既に40万ドルもの損失を出していたのである。

大恐慌時代の中でコカ・コーラは業績を伸ばし続けた。 1933年12月, ついに飲酒が解禁されたが, それもコカ・コーラのダメージにはならなかった。 むしろ警察は類似品を摘発し, 人々はコカ・コーラに「古き良き栄光のアメリカ」のイメージを求めて売り上げはさらに増加した。 映画もまた不況の現実から逃避する娯楽として人気だったが, ここにもコカ・コーラが登場して宣伝効果を上げた。 また冷蔵庫の普及が進み, コカ・コーラは家庭でも飲まれるようになった。 かの有名なサンタの広告 が使用されたのもこの頃である。

実は大恐慌時代における最大の敵は不況それ自身ではなかった。 それは瀕死の重傷から立ち直ったペプシであった。 ペプシは12オンス入りの瓶をコークの6オンス入りの瓶と同じ5セントで売り出し, 特にブルーカラーを中心に支持を集めた。 また, コカ・コーラ社から類似品として訴えられないよう, 「いかなる場所であれ, ペプシをコカ・コーラの代用品として販売してはいけない」 と営業マンに徹底した。 ペプシがコカ・コーラの唯一の「敵」として認められるようになる過程は コーラの歴史 第3回 ペプシの挑戦 にまとめてあるので参照されたい。

コカ・コーラ, 戦場へ行く

コカ・コーラはペプシとの本格的な戦争に突入する前に, 第二次世界大戦を経験した。 1941年に起こった真珠湾攻撃の直後, ウッドラフは次のような特令を発した。 「我々は軍服を着た全ての兵士が, どこで戦っていようと, また我が社にどれだけ負担がかかろうと, 5セントの瓶入りコカ・コーラを買えるようにする。」

コカ・コーラ社は前線の後方に次々に瓶詰め工場を建設した。 あるいは軍が現地の瓶詰め工場を徴発し, そこでコカ・コーラの瓶詰めが行われた。 戦地の工場で働く社員は軍の技術顧問(T.O)としての地位を与えられ, 軍隊の階級に応じた給与を軍隊から支給された。

当時のコカ・コーラの優遇ぶりを示すエピソードがある。 ある輸送機が, 何千本もの空のコークの瓶を積んでサウジアラビアの人里離れた陸軍基地を離陸した。 けれども積載重量を越えて瓶を満載していたので, 高度が上がらず, 辛うじて砂丘の上をかすめ飛んだ。 同乗していた従軍記者が瓶を捨てたらどうかと機長に告げた。 しかし機長は, 「銃や弾薬ならいい。でも, コカ・コーラの瓶だって? とんでもない。降格されたくないなら絶対に駄目だ。」

かくしてコカ・コーラは軍の資金で世界中に瓶詰め工場を手に入れたことになる。 そして軍が引き上げた後には, すっかりコークのことを気に入った地元の人々にコークを供給できる体制が出来上がっていたわけである。


[11月号表紙]
コーラ月報11月号

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