コーラ白書
TOP 四季報 データベース 缶コレ 資料館 殿堂 検索 ヘルプ
特集・コーラ歴史の研究「偶像としてのコーラ」

中本 晋輔

コーラは清涼飲料であり、その点においてはオレンジジュースやラムネと何ら変わりない。しかしコーラが特異的なのは政治や思想・イデオロギーを孕んだ、偶像的な一面を有する点である。歴史上コーラは信頼や心の拠り所となり、また憎悪や反発の対象であった。

神話の完成

少なくとも第二次世界大戦前までは、コーラは普通の飲み物であった。コカ・コーラは誕生から既に半世紀以上を経た伝統的な飲み物として成功してはいたが、大衆的な炭酸飲料以上の存在ではなかった。

コーラが特別な存在となるきっかけを与えたのは日本海軍による真珠湾攻撃であった。アメリカの参戦により米国内で物資統制が始まり、コーラに不可欠な砂糖が配給制となった。当時のコカコーラ社長ロバート・ウッドラフは開戦後すぐに「我々は軍服を着た全ての兵士が、どこで戦っていようと、また我が社にどれだけ負担がかかろうと、5セントの瓶入りコカ・コーラが買えるようにする」の方針を発表、同時に軍へのロビー活動を展開した。ウッドラフは砂糖だけではなく軍隊そのものが有望なコーラ市場であり、この戦争が海外進出の足がかりになることを確信していたのだ。

この活動により1942年チョコレートバー「Hershey's」と並んで軍需物資として認められ、軍は供給するものに限っては無制限に砂糖を使える権利をコカ・コーラ与えた。砂糖の足かせから逃れたコカ・コーラはサービスマンを前線に派遣し、アメリカ陸軍は彼らに準軍人の地位「Technical Observer」を与え厚遇した。

母国から離れ極限状態で兵士たちにとってコカ・コーラは単なる清涼飲料に留まらなかった。コカ・コーラは故郷を思い出させる特別な品であり、お守りであり、精神的な拠り所となった。戦争中の手紙の中には多くの兵士が中身入りのボトルをただ眺めていたり、握り締めて最期を迎えた様子が伝えられている。

戦後コカ・コーラは海外64箇所のボトリング施設を払い下げにより手に入れたが、ウッドラフの決断によりもたらされた最大の見返りはコカ・コーラを戦友のように扱う復帰兵であった。かれらは帰国後も好んでコカ・コーラを飲み、同社は売上を飛躍的に伸ばす。政治の世界に進んだ将校たちも自らがコカ・コーラの愛好者であること好んで口にするようになった。

その典型がドワイト・D・アイゼンハワーである。連合軍総司令官時代に北アフリカ戦線から「ボトル300万本送れ」と電報を打ったほどの親コカ・コーラ派として知られる彼は戦後アメリカの国民的英雄となり、ボトルから美味しそうにコカ・コーラを飲む姿は同社の格好の宣伝となった。53年に「反共主義」を掲げて大統領に選ばれた後もその嗜好を変えることはなく、ウッドラフも彼を積極的にサポートした。

50年代の半ばにはコカ・コーラはアメリカの代名詞となり、民主主義の象徴とまで呼ばれるようになった。

しかし強すぎる力との結託は諸刃の剣でもある。アメリカのやり方を快く思わない人々、特に共産主義を信奉する人々にとってコカ・コーラは憎むべきアメリカの象徴と映り、格好の攻撃の対象となった。戦後欧州やアジアで広がったコカ・コーラ排斥運動の中には現地の共産主義団体に支援されたものが少なくなかった。

カーテンの向こう

反共を唱えるアメリカ共和党とコカ・コーラの親密な関係は、やがて同社の世界戦略に影を落とし始める。度重なる共産主義団体からのバッシングと政府との関係重視のあまり、アトランタ本社はソビエト連邦に代表される共産主義諸国の市場を放棄することを決断する。当時この決定は「ナポレオンが超え、ヒトラーも超えたがコカコーラは引き返した」と揶揄された。

この状況にチャンスを見出したのがペプシだった。知将スティールの元で奇跡の復活を遂げたペプシは、ライバルにはないフットワークの軽さを武器にコカコーラの市場を脅かし始めていた。アイゼンハワーが副大統領に指名したリチャート・ニクソンはペプシの元弁護士であり、ペプシは念願のホワイトハウスへの強いパイプを手に入れていた。

共産圏でのペプシ優勢を決定付けたのが59年7月にモスクワで開催された「アメリカ産業博覧会」であった。米国のステート・デパートメントが中心となったこのイベントはソビエトでアメリカの製品を紹介するという趣旨のもので、既に冷戦下であった共産圏で商品をアピールできる貴重な機会であった。米国200社が参加したが、コカ・コーラが辞退したためペプシが唯一のアメリカの清涼飲料メーカーであった。

展覧会のペプシの責任者は当時のペプシ・エキスポートカンパニー社長、ドナルド・ケンドールであった。ニクソン副大統領はペプシの要請に従い、有名な「台所論争」の後だったにも拘わらずソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフをペプシブースへ招待した。ここでケンドールはアメリカ製と現地で瓶詰めした2種類をペプシを振舞った。フルシチョフはロシアの地で作られたペプシを選び、2杯目を頼むほど気に入った。

2つのペプシに差はなかったが、このときケンドールはフルシチョフの面目を保つためロシア製のものをよくアメリカ品よりよく冷やして出したと言われる。やや出来すぎた話であるが、彼の頭の良さを物語るエピソードである。

ペプシを飲むフルシチョフの写真は世界的に報道され、ペプシは共産圏で最も有名な炭酸飲料となった。またこの報道で「冷戦の雪解け」をもたらしたと評価を高めたニクソンとペプシの絆はさらに強固なもになった。ペプシはライバルが手を着けなかった300万人市場への足がかりと、後の大統領を同時に手に入れたのだ。

この後の大統領選でニクソンは親コカコーラ派のジョン・F・ケネディに僅差で敗れるが、68年の選挙で大統領に選出される。彼のサポートによりペプシは72年、ソビエト連邦政府と84年までの独占販売契約を締結。これによりペプシはソビエトや東欧諸国で一般的に手に入るコーラとなった。コカ・コーラは何度も参入を画策するが突破口と期待されたモスクワオリンピックのボイコットなど政局に翻弄されつづけ、ソビエトの地を踏んだのは契約の切れた85年1月のことだった。

コカ・コーラの十字架

コカ・コーラが背負った「アメリカの象徴」の看板は、その後も彼らの海外展開に影響を与えつづけた。そのもうひとつの例が中東地域であった。

第二次世界大戦後コカ・コーラは中東への進出に着手し、1948年にエジプトでのボトリングを開始した。54年ごろに「コカ・コーラには豚の血が入っている」という噂が流れた事件はあったが、ペプシがエジプトに参入する58年まで先行者利益を堪能した。

当時イスラム諸国は49年建国されたイスラエルに対して経済的な締め出しを行っていた。しかしイスラエルは当初米国資本の清涼飲料の参入を認めていなかったためコカコーラもペプシもボイコットの対象にはならず、中東のコーラ情勢は比較的安定していた。しかし1966年にイスラエル態度を一転、コカ・コーラの参入を要請すると状況は一変した。

この時コカコーラはイスラエルでのフランチャイズ事業に乗り気ではなかった。イスラエルの市場が小さいことに加え、事業を開始すれば周囲の巨大なアラブ市場を失う危険性を認識していたからだ。コカコーラは一旦イスラエルでのボトリング事業を行わないと発表する。

しかしこれが米ユダヤ人団体の怒りを買い、アメリカ国内でのボイコットを誘発。事態を重く見たコカコーラは採算度外視でイスラエルでの事業を開始し、同時にアラブ諸国に対して「いかにコカ・コーラが地域経済に貢献しているか」を懸命にアピールした。しかし健闘空しく66年のアラブ連合会議はコカ・コーラの販売禁止を採択する。

イスラエルはペプシの参入を認めなかったため、アラブ諸国はペプシに対しては寛容でありつづけた。アメリカの象徴という十字架を背負ったコカ・コーラはここでもペプシに果実を奪われる格好になった。この地域では「イスラエル=コカコーラ、アラブ諸国=ペプシ」の構図が定着し、67年のイスラエルのゴラン高原侵攻の際にはペプシの看板が攻撃されるなど代理戦争の様相を呈する程であった。

しかしこの広大で乾燥した市場が諦められないコカ・コーラは70年代後半、親コカ・コーラ派大統領ジミー・カーターのサポートを得て交渉を進めた。発売禁止を撤回させるには至らなかったが、淡水化プラント投資などの見返りとしてエジプトなど数カ国で特別販売許可を取り付けるまでに漕ぎ着けた。

93年のオスロ合意で中東和平の道が開けると発売禁止措置は解除され、コカ・コーラはようやく全ての中東市場に再進出を果たした。だが現在でもパレスチナ支援センターはコカ・コーラを「イスラエル支援企業」として非難、ボイコットを呼びかけている。

躍進する反米系コーラ

21世紀に中東の緊張が再び高まりを見せる中で、コーラも新しい展開を見せ始めた。これまでの代理戦争ではなく、自国のコーラ市場を米国資本から取り戻そうという動きが見られるようになったのだ。

その先駆けとなったのがザムザムコーラ(Zam Zam Cola)だ。この聖地メッカの泉の名を冠するコーラは79年から続くローカルの清涼飲料であったが、反米感情が高まった2002年頃から売上が急上昇。現在では欧州の一部やアジアにまで勢力を広げるまでになった。

またトルコの食品メーカーUlkerはトルコ経済からの米国資本の排斥を掲げ愛国主義的なコーラ・コーラトルカ(Cola Turka)を発売、売上を伸ばした。

この成功に触発されたのか、02年以降いくつかの「新興」イスラム系コーラが登場した。フランスのパキスタン系事業家は02年10月にメッカコーラ(Mecca Cola)を発売、またイギリスでも03年にキブラコーラ(Qibla Cola)がリリースされた。ちなみにQiblaとは聖地メッカのモスクの方向の意味だという。

これらの反米系コーラに共通するのは、彼らは穏やかに、そして正々堂々と米国資本コーラに戦いを挑んでいる点である。中東地域の反米行動といえばボイコットなど過激な印象があるが、彼らは具体的な愛国的要素を盛り込んだマーケティング戦略でコカ・コーラやペプシとの差別化を図っている。利益の一部をパレスチナ支援に当てるメッカコーラがその好例である。

もうひとつの特徴として、コーラのクオリティが比較的高いことが挙げられる。この種のコーラを飲むと、廉価コーラと一線を画す丁寧に作りこまれた完成度の高さに驚かされる。中身でも米国資本コーラを越えんとする彼らの心意気の現れなのだろう。

反米系コーラは中東地域のみならず、移民や宗教を追って海外展開を果たしている。メッカ・コーラはイスラム系住民の多い中東や東南アジアで、またコーラトルカはトルコ系移民の多いドイツ・オーストリアまで販売網を拡大している。だが資本力がモノを言うコーラ業界においてはコカ・コーラやペプシの圧倒的優勢な状況は変わらず、むしろ販路等の点で苦戦を強いられているのが実情のようだ(註)

ちなみに過去アジアでも愛国主義を掲げたコーラが登場している。独立記念日を掲げた韓国の純国産コーラ、パリーロ815である。しかしこのコーラの製造社は元コカコーラのボトラーで、契約を打ち切られたことに反発して作ったものだという。ウェブサイトの勢いは素晴らしかったのだが反米感情の根の浅さが災いしたのか数年で消えてしまった。こちらも結構美味しかったんだけど・・・

★ ★ ★

ベルリンの壁の崩壊が冷戦の終わりを告げて久しいが、現在でもコカ・コーラがアメリカの象徴であることに変わりはない。いくつかの地域ではその看板故に敗北したが、ここまでコカ・コーラ巨大なブランドに成りえたのもその看板があってのこと。今後も同社がこの路線を変えることはないだろう。

戦後ペプシはコカ・コーラの逆を行く戦略で成長を遂げた。しかしこの戦略を続けるにはペプシは大きくなりすぎたし、世界地図に空白地帯はもうほとんど残っていない。今後はライバルと同様に、新興勢力から攻撃される立場になると予想される。

ちなみに日本でこれまで発売されてきた無数のコーラの中に、イデオロギーを掲げ米国資本に喧嘩を売った骨のあるものは見当たらない。我々は良くも悪くもアメリカに寄り添って生きているということなのだろう。


(註)製品ラインを増やしアメリカ上陸まで果たしたキブラコーラも2005年に破綻、現在は財務管理下に置かれている。