コーラ小説

パンドラの箱


 男は硬貨を二枚入れ,ボタンを押した. 赤いコーラの缶をかがんで取り出す。 どうしてこんな冬の日にコーラなんて飲みたくなったのかは, 彼にもわからない. そもそも自動販売機に金を入れた時点ではぜんぜんコーラなんか飲むつもりはなかったのだ. ただ,彼はちょうど暖房の効きすぎた床屋から出てきたところだったし, 喉が渇いていたことは確かだった.

 手慣れた手つきで片手でプルリングをひく. もう片方の手はジャケットのポケットにだらしなく突っ込んだままにしてある. なにしろ寒いのだ.

 そして,目の前を通り過ぎた女の腰のあたりを見つめながら彼は昨日, めずらしく爪を切ったことを後悔した. 爪なんて切る必要はなかった. ただ,ふらっと入った金物屋でとてもシックな爪きりを見つけたのだ. 爪きりにシックさというものが必要であるかどうかを知りたくて 彼はその爪きりを1780円出して買った. 彼の爪を切るときも爪きりはたしかにシックでエレガントだったが, 彼の爪にはそのエレガントさは身につかず,それはただの深爪だった.

 「ちっ」舌打ちをしながらポケットの中の手を取り出した. 2,3回肩をまわし, ベルリン・フィルを指揮するみたいにもったいぶって腕を構えた. 普段ならそれで彼の困難は消えるはずだった. 普段なら.

 「・・・・・」 彼の手の中指はもうすでに使いすぎていて爪のあたりがひりひり痛んでいた. ほかの指でも試してみたが, どういうわけか缶は開かなかった.

 いつまでも吹きさらしの自動販売機の前にいるわけにはいかなかったので, 彼は移動を開始した. 開いていないコーラの缶を持って歩くのは, ロッテリアのハンバーガーを包み紙ごと抱きしめて歩くのと同じぐらい 恥ずかしい行為のように感じられた. いたたまれなくなって彼は手近なパチンコ屋に入った. 見たこともない台の前に座って,1000円札を突っ込み, 左手でハンドルを操作しながら恨めしい気持ちで右手の缶を見た. この缶は凍り付いているのだろうか. まさかそんなはずはない. 頭の半分で玉の行方を考え,頭の半分でコーラのことを考えた. 半分は確立変動という言葉を思い浮かべ,半分は振動と圧力という言葉を提示した. 彼の体の半分はハンドルを固定することに集中し始め, その反動か体の半分は周期振動し始めた.

 彼の玉がなくなりかけ, 追加の1000円を取り出そうとしたとき彼の左はやっと右が何をしていたのか, その意味に気がついた. 缶は彼の手の中でまるで生き物のように脈動し始めていた. そして,缶はすこし大きくなったようだった. 彼はその缶を開けることはしばらく不可能になったことに気がついた. そのことに気がついたとき,彼の持ち玉はすっかりなくなっていた. 彼は追加の玉を買うことをやめ,店を出た.

 彼の右手はずっとコーラを握っていたためすっかり冷え切っていた. 反対にコーラはもうそんなに冷たくなかった. もうぜんぜんコーラなんて飲みたくなくなっていた. 彼はとにかくコーラから手を放したかったので, 手に持っているコーラをぽーんと2mほど上に放り投げた. コーラの缶はスローモーションで目の前に落ちた. がちっっという音がしてコーラの缶はアスファルトに叩き付けられたが, 別段そのことに不満はないようだった. 彼にとってもそれはすでに道に転がる大きな石ぐらいの意味しかなくなっていた. ただ,今日はやろうと思っていたのにできなかったことが一つあったというだけだ. そんなことは別にめずらしいことじゃない. 彼は目の前のコーラの缶をひょいっと爪先で蹴飛ばした. 缶はころころと転がっていった.

 突然目の前を緑のワゴンが通り過ぎ,コーラの缶を踏み付けた. 彼の不完全さを示した石ころは黒くてぶくぶくした醜い姿をさらけ出して, ただのアルミの板に変わった. ワゴンは自分の示した完全さには目もくれず,5mだけタイヤの後を残して走り去った. 彼は首になった会社が倒産したようなやるせない気持ち良さの中, さっきの自動販売機のところまでいってペットボトルのコーラを買った. これなら爪がなくても開けられるし, 今は飲めるだけコーラを飲みたい気分になったのだ.

M-TAM

[5月号表紙]
コーラ月報5月号

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