コーラ白書
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これまでコーラ白書では個性的な国内の地コーラを取り上げてきた。沖縄県・伊江島のブラックケインコーラ。福岡船小屋温泉の古賀飲料コーラ。その両方の取材の中で、ある製造メーカーの名を聞いた。

株式会社 友桝飲料。

創業明治35年、日本で五本の指に入る老舗飲料メーカーだ。社名は知らなくても「こどもびいる」のメーカーといえばピンとくる方も多いだろう。その他にもレトロサイダーの代表格「スワンサイダー」やプロ向けジンジャエールブランド「neo」、小豆島の「醤油サイダー」など、その尖がった商品力は他社の追随を許さない。

一体どんな人物が商品を企画しているのだろう。ずっと気になっていたところに、同社が本格ジンジャーコーラ「neo スパイシーコーラ」を発売するとうニュースが飛び込んだ。これを機に連絡を取り、思い切って取材をお願いすると意外にも快諾。長崎空港に降り立ったのは、それから20日後のことだった。

タダモノではない

友桝飲料の最寄り駅はJR長崎本線牛津駅。駅まで友桝飲料の車がお迎えに来ていて、まさかのVIP待遇である。就業時間中なのにスミマセン・・・

車で5分ほど走ると友桝飲料の工場に到着。前には同社の代表商品「こどもびいる」のイラスト入りトラックが止まり、ついに来てしまったという気分になる。

仕事上の会社訪問は嫌というほどこなしてきたが、コーラ白書代表として会社訪問をするのは今回が初めて。ちょっと緊張してきた。

スチールの階段を上り、工場2階のオフィスのドアを開ける。中にいた女性に名前を告げると、扉の影から不意にお声がかかる。

「あ、 こんにちは、中本さん」

びっくぅ。

声の主はパーカーにジーンズ姿の長身の男性だった。オフィスに馴染まないその出で立ちと、机に無造作に置かれたマックブック。使い込まれた革のアタッシュケースには、飲料のラベルがぎっしりと張り付けられている。友田社長・・・ではなさそうだが、この雰囲気はタダモノではない。

実はこの方、有限会社ウィロー代表の浅羽さん。「こどもびいる」の発案者にして、数多くの商品企画を手掛ける。

「中本さんが来ると聞いて、どんな人かと思って駆けつけましたよ」

・・・なんだか皆さんにお手数をおかけしていることに気づき、非常に恐縮である。

友田社長が別件で打ち合わせ中とのことなので、浅羽さんと色々とお話をする時間があった。とても気さくな方だが、清涼飲料の話になると鋭いセンスが顔を覗かせる。特にコーラに関しては造詣が深く、市場における商品のポジショニングについてしっかりとした持論をお持ちだった。初対面で「レッドブルコーラの旨さ」とか「コーラにおける苦味の重要性」とか、そんなマニアックな話ができる人は世界的にもあまり多くない。

雑談にしては密度の高い話で盛り上がっていると、隣で打ち合わせが終わり応接室に招かれた。紺の作業着姿の友田社長は、私が思っていたよりずっと若い方だった。

株式会社友桝飲料 代表取締役社長 友田氏


「コーラは敵」

友桝飲料で現在製造するコーラはブラックケインコーラ、古賀飲料コーラ、トモマスコーラ、neoスパイシーコーラの4種類。これは国内の飲料メーカーではサントリーと並び最多である。

早速友田社長にコーラ飲料の戦略についての意見を伺うと

「いや、元々ラムネ屋なので、コーラは正直よくわからないんですよ。我々にとってコーラは敵でしたから」

えぇぇぇ・・あの、私、ここに居て良いんでしょうか?

友田社長の話によると、清涼飲料の黎明期だった明治時代には地域に根差したラムネ屋がたくさんあったのだという。瓶を回収する必要上、商圏はリアカーを引いて行ける範囲だけ。最盛期には佐賀県内だけで40件を超えるメーカーが存在した。

しかし1956年のコカ・コーラ原液輸入の解禁を機に状況は一変。コカ・コーラの大規模な市場参入により国内の飲料メーカーは市場を大きく奪われ、多くが廃業に追い込まれた。佐賀県内のラムネ屋さんも数年で半減したという。

先代からこの政治の匂いのする解禁劇を何度となく聞かされ、「コーラは飲むな」と言われて育った友田社長。コーラに対して敵愾心を持つのも当然のことだ。

その一方で、友桝飲料は市場を冷静に分析してきた。「コーラ=コカ・コーラ」と認識されている日本の市場で、コーラ飲料で勝負しても勝ち目はない。よほどの差別化ができない限り、価格競争に巻き込まれるのがオチだ。

このため友桝飲料はコーヒーサイダー「ダイアナ」などを作りながらも、決してコーラには手を出さなかった。

こどもびいる登場

2003年、友桝飲料を一躍有名にした新商品が誕生する。子供向けビール的飲料「こどもびいる」である。この大ヒット商品をアイデアを発案したのは隣に座る浅羽さんが出したものだ。

当時福岡でもんじゃ焼き屋を経営していた浅羽さんは、大人がビールを飲む隣で子供も同じように飲める炭酸飲料があれば売れると考えた。そこで目をつけたのが、褐色のビール瓶に入った友桝飲料のガラナ飲料「スワンガラナ」だった。

はじめはこのスワンガラナに「こどもびいる」の自作ラベルをお店で張り替えていたそうだが、人気が出るにしたがい間に合わなくなり、製造元の友桝飲料に相談した。作業着のまま駆けつけた友田社長は、浅羽さんのコンセプトに共感、製品化に取り掛かかった。

鋭い市場観察力を持つ浅羽さんと、優れた耳と冷静な経営判断力を持つ友田社長。この二人が組んで生まれた「こどもびいる」は、既に飽和したと思われていた清涼飲料の世界で「ビール様清涼飲料」という新たな市場を開拓することに成功。そのインパクトの大きさは、複数の競合他社が追従したことからも伺える。この「こどもびいる」の成功で地元中心だった友桝飲料の商圏も全国へと拡大した。

コーラ開発に着手したのはそれから数年後。伊江島物産センターから製造依頼された地コーラ「イエソーダ ブラックケインコーラ」が、友桝飲料のコーラ第1号となった。島の黒糖と湧出(わじ)を使ったこの「地コーラ」はプレミア性と差別化を図れる商品。価格は200円と高いが、売れ行きも良かった。

「地コーラなら戦える」

友田社長は思ったという。

その後スワンサイダー等の地サイダーで名を馳せる傍らで、自社ブランドのコーラ開発に着手。駄菓子屋のコーラをイメージして一から配合を作り込んで完成したのが「トモマスミニコーラ」である。95mlの小さなガラス瓶に入ったこのコーラは全国で発売され、その多くがプレミアコーラとしてデパートや高級食品店に並んだ。そういえば私が初めにこのコーラを見つけたのも大阪・心斎橋の千成屋だったっけ。

そしてこの時開発されたレシピは昨年発売された船小屋温泉の名物「古賀飲料コーラ」にも生かされている。鉱泉水を飲料に使用するのにかなり苦労されたようだが、その完成度はかなり高い。特にフレーバーが汎用っぽくなくてシッカリしていると思っていたけど、友桝飲料のオリジナルなのだから当然だ。

しかしこれだけ多くのコーラを手掛けながらも、コーラを語るときの友田社長の表情は険しい。政治的圧力で参入したコカ・コーラや、大手スーパーの地域を軽視した仕入れ手法など、コーラ飲料をとりまく現状に思うところは多いようだ。結局コーラについて最後まで話が盛り上がることはなかった。

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