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コーラ小説 / 猫
中橋 一朗

僕の猫が突然死んだのは,今朝のことだった。理由はわからない。

息をひきとる時,彼は僕に抱かれていた。彼の心臓が最後の鼓動を刻んだあと,彼の体は急速に温もりを失い,やがてはく製のように強張っていくのが感じられた。

僕はその変化を,ただじっと見つめていた。この種の形での最終的な破局,それはいつか必ず訪れるものだと,僕は知っていた。けれども過去に失われたものと,現在失われつつあるものとの間に,いったいどれほどの同一性があるというのだろう。

外では,晩秋の訪れを告げる鋭い風の流れが送電線を揺さぶっている。独り暮らしの安アパートには容易にすきま風が忍び込み,僕の回りをぐるぐると旋回した。僕はぶるっと身震いして考えた。今年はもう,コタツを買わなければならないなあ。

★ ★ ★

僕と,彼との出会いは,概ねありふれたものだった。

僕がいつものように,河川敷の芝生でオムレツ弁当を平らげたところに,今日に限ってひょっこりと現れたのが,その猫だった。

猫は最初,僕の方を見つめてじっと座っていた。でも僕が食後のコーラを開けると,彼の注意はそれに集中したみたいだった。コーラを持った僕の手が顔に近づいたり,芝生に近づいたりする度に,ビー玉のような瞳がくるくると回転した。

僕はオムレツ弁当のフタを裏返して,そこにコーラを少しそそいだ。それを目の前の地面に置くと,猫は恐る恐る近づいてきて,それをきれいに舐めてしまった。そして僕のことをまた見つめるので,コーラのおかわりを注ぐと,またもや巧妙に飲み干すのだった。

結局猫は,半分近く残っていたコーラを全部飲んでしまった。猫は尻尾をぴんと立てて,とても満足したようだった。僕は自分のコーラが無くなってしまったことで多少不満だったが,彼の嗜好が珍しいのにはとても感心した。

猫は僕のとなりにじっとうずくまって,瞑想するかのように遠くを見つめていた。僕は息を潜めて観察していたが,立ち去る気配はない。そして午後の授業に出るために重い腰をあげると,猫も僕の後をついてきた。最初僕は困惑した。多分餌をやったのが失敗だったのだ。けれども僕は,この特殊な味覚の持ち主を追い払うのが忍びなくて,結局下宿まで連れて帰ったのだった。

彼は何でも食べた。そしてどこででも寝た。冬は僕の布団の中で寝る事が多かったが,夏は床で大の字になったり,台所の流し台で寝ていた事もあった。その朝はひどかった。顔を洗おうと蛇口をひねったら,目の前に突然水浸しの獣が飛び出してきたのだ。僕の驚きも多少のものではなかったが,彼も実際取り乱したらしく,部屋中をひとしきり暴れ回ったあと,大きく伸びをして,ぶるぶると頭を振った。

コーラを飲ませてやると,彼はいつでも上機嫌になった。彼はそのざらざらの舌で皿の中身を舐めてしまうと,全身を入念に毛づくろいしてから,テレビの上でうたた寝する。そんな時は僕もテレビを消して本を読んだ。やがて眠くなれば,僕も眠る。

僕は学校に通った。彼はコーラをよく飲んだ。僕たちの日常は,オートリバースのカセットデッキのように,平凡だった。世界が大量の言語を消費し,その結果としての対立と無関心とを生み出す間にも,僕たちはむしろ無言だった。つまり僕たちは少しだけ,世界の核心に近づいていたのだと,今は思う。でも,

それから2年ほどして,今朝,彼は突然死んだ。理由はわからない。

★ ★ ★

僕は友人に教えられたとおり,保健所に電話して,彼を引取ってもらうことにした。昼過ぎに薄緑色の軽トラックでやってきた作業服の男は,彼を黒いビニールの袋に入れて,口をぎゅっと結んだ。そして彼を荷台に放り投げた。黒い袋は,秋の空を高く躍って,ばさりと着地した。そこには,同じような黒いビニール袋がうず高く積まれているのだ。特撮映画の怪獣のシルエットみたいだ。

彼はどうなるんですか。僕は聞いた。

「ちゃんと燃やすさ。まんま埋めるってわけにもいかねぇだろう。」

面倒臭そうにそういって,軽トラックの男は走り去った。薄緑色のそれが街路樹の向こうへ消えると,あとにはガソリンの焼けた匂いが残った。それから僕は部屋を掃除して,彼の痕跡(トイレとか,エサ用の小皿とか)を,悉く黒いゴミ袋に詰め込んだ。ただ,爪とぎのせいですっかり丸くなってしまった柱の根元だけは,手の打ちようがなかった。僕は柱のそばに鉢植えを置いた。

夕方になると,空は夕焼けに染まった。ねぐらへ帰る鳥たちが,無数の影となって舞う。僕は街へ出て,商店街の金物屋で小さなシャベルを買い,自動販売機でコーラを買った。それから人気のない河川敷の芝生に,シャベルで穴を掘って,燃えるように赤いアルミ缶をしっかりと埋めた。白抜きの文字の部分も,今は淡い朱色を映していた。

僕は足下を何度も踏みしめながら考えた。彼は黒いビニール袋で去り,今頃はもう灰になっているだろう。今はこの僕自身と,足下のコーラだけが,僕たちの平凡な生活を懐かしんでいる。この世界に,彼の墓標があるべき場所は無い。これは悲しいことだ。けれども全てが雨ざらしというわけではない。例えば僕の足下で,過去は土へと還っていく。

気が付くと,あたりはもう暗かった。川面は黒く静まり返って,街の明かりをゆらゆらと漂わせている。僕は見上げたが,都心の空に星はない。そして僕の足元はすっかりと踏み固められて,まるで永久に掘り返すことはできないみたいだった。


[四季報 1999年7月号] [コーラ白書] [HELP] - [English Top]
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