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あらき 急な山道を軽々と登る白衣の姿があった。山の中腹の研究所に勤めている山岡だった。 ほとんど使われていない登山道は、鬱蒼とした杉林に覆われていた。しばらく行くと、杉林が切れ、見晴らしの良い場所に出た。彼は、指定席になっている岩に陣取り、手にしたペットボトルのキャップをひねった。眼下には、研究所があり、はるか向こうには、ふもとの町並みが広がっていた。 彼は心地よい風に当たりながら、温めのコーラを飲んだ。いつも、ここでコーラを飲み干し、山の冷たい湧き水に詰め替えることが習慣になっていた。甘いコーラの味が口に広がると、今朝のビジフォンのやり取りが浮かんできた。 「あなたは、大丈夫なの?」
彼女は、画面の向こうから、じっと彼を見つめた。新型インフルエンザに大丈夫かと聞いているのだ。 「さあ、どうかなぁ。どうしても確かめろと言うのだったら、町に下りてみれば確かめられるけど」
「良かったじゃないか」と、彼はつぶやいて、湧き水を詰めたペットボトルを手にすると、彼は、また、歩き出した。山頂までは、あとわずかの距離だった。
この山の中の研究所が開設された当時には、十名が常駐していた。しかし、研究員は次々とアレルギーを発症し、山を下りた。入れ替わる研究員はアレルギー体質ではない者が選別されたが、結果は同じだった。 彼がなかなかアレルギーを起こさないでいるのを見て、「山岡は杉の神様に祝福されたのさ」と、誰かが言うようになった。そして、それからは、彼だけが常駐する研究所になったのである。 「これからどうするの?」 山頂の神社に登り着くと、賽銭を入れ、拍手を打った。この山と杉に祝福されているから、それなりに、お礼をしなきゃな、という気持ちだった。 強いスギ花粉アレルギーがあるおかげで、この山には誰も近づかなくなっていた。ふもとの町では、アレルギーの元である杉を切り倒せという意見も出ていた。しかし、彼の研究成果が目覚しかったため、貴重な研究材料が失われてはならないという主張が通って、杉は保存されることになったのだ。もちろん、アレルギーを起こさない彼自身も貴重な研究材料というわけだ。杉と山岡には奇妙な利害関係があるのだった。 「インフルの死亡率は六十パーセント以上よ」 ニュースによると、今回の新型インフルは致命的な毒性をもったものだった。感染して数日で六十パーセントが死亡するという速さと、高い死亡率が特徴だった。防ぐ方法は、人と会わないことだったが、町では、そんな生活はできなかった。もう、ウイルスは世界中に蔓延して手遅れなのだ。 政府はテレビなどを通じて、パニックになるな、人間らしく生きようと訴え続けていた。暴動などは、奇妙なほどなかった。インフルに罹ると病状が急速に悪化し、動けなくなるためなのかも知れなかった。罹っても回復すれば元気になるし、二度はかからないということが分かって、自分は助かるかもしれないという可能性に希望を感じているためかも知れなかった。 山岡は人に会わないから、インフルに罹らずに済んでいた。インフルのニュースも現実ではないような気がしていた。とはいえ、わざわざ危険を犯して、人に会うつもりもなかった。 「また会えるよね...か」 彼は独り言を言って、ペットボトルから湧き水を一口飲んで、山を下り始めた。白衣をはためかせながら、飛ぶように杉林をかけ抜けていくその姿は、どこか修行する山伏の姿に似ていた。 (おわり) 【著者のプロフィール】 「あらき」さんコーラ白書の「X番目のスタッフ」を自称するエンジニア。昨日の庭仕事で虫に刺されたらしく耳がかゆい。カミさんは、今 日は天気いいわねと庭仕事のつづきを催促をしてくるが、雨が降るかもと抵抗中だ。残念ながら、最近よく当たる天気予報によれば、今日は晴れだ。
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