コーラ白書
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特集「ペプシ・チャレンジとニューコーク」

中本 晋輔

近代のコーラ史は2つの巨人によって作られたと言っても過言ではない。芯があり刺激的なコカ・コーラとまろやかで口当たりの良いペプシ、このまったく味の違う2つの飲料はあらゆる分野で戦いを繰り広げてきた。読者の中にはマイコーラをどちらかに決めている方も多いことだと思う。もしここでコカ・コーラが突然ペプシの味に変わったら、皆さんはどうするだろうか。

これに近い事が16年前にアメリカで起こったのである。85年に起きた"Coke's reformulation (コカ・コーラの調合変更)" はアメリカのマーケティング史に残る大事件であり、またコークがアメリカの人々の中でどのような位置付けなのかを浮き彫りにした出来事でもあった。

今回はコーラ戦争の一大転機となったこの事件とその背景にスポットをあてていきたい。

コカ・コーラの凋落

第二次世界大戦でアメリカと共に戦う道を選んだコカ・コーラは、終戦時にはライバル達に決定的な差をつけていた(「コーラと第二次世界大戦」参照)。60年代に入るとペプシも追い上げを見せたがその売上は彼らの半分にも満たず、コークは常にソフトドリンクの王座に君臨していた。"The Boss" と呼ばれた稀代のCEO,ロバート・ウッドラフ(Robert Woodruff)は会長の座をオースティンに譲ったものの未だ絶対的な権力を擁し、その庇護の下コカ・コーラを脅かすものは何もないように思われた。しかし70年代に入ると状況は一変する。

コカ・コーラを始めに襲ったのは70年代初頭の急激なインフレだった。原料価格が高騰する一方、当時のボトラーとの契約では砂糖を除く原液の卸値は値上げできないと定められていた。このためフランチャイズによる同社の利益はほとんどなくなり、76年頃には売れば売るほど赤字になるという危機的な状況となった。

これに追い討ちをかけたのが連邦取引委員会である。彼らはコカ・コーラの1地域1ボトラー制が独禁法に接触すると主張しだしたのだ。政府がこれを認めれば、コークが100年近くかけて築いてきた体制そのものが否定されることになる。戦いは法廷へともつれ込み、ウッドラフの指揮のもと会社を挙げて体制の維持が図られた。

コークが2つの問題の対応に追われた結果、ソフトドリンクメーカーとして最も大切なこと、つまり「売上を伸ばすための努力」がなおざりにされていた。また戦後数十年の安定期を経験した経営陣の中では改革より伝統を守ることが重要視されており、ほとんどの対策が後手後手に回った。コカ・コーラは創立以来最大の危機を向かえていたのである。

ペプシの挑戦

大戦でコカ・コーラに水を空けられたペプシは戦後しばらく低迷したが、1960年代に入ると"PEPSI Generation(ペプシの世代)"キャンペーンで反撃を開始する。これは従来の製品アピールではなく、ペプシのブランドイメージを一新することを目的とした新しいタイプのキャンペーンであった。この戦略は大成功し、ペプシは「安物・偽者」から「若くエネルギッジュで都会的」なブランドへと変貌を遂げる。我々が今日目にするPEPSIのイメージが作り上げられたのである。

PEPSI Generationの成功によって売上を大幅に伸ばしたペプシだったが、このキャンペーンがまったく効果を挙げない地域もあった。コカ・コーラの本拠地・ジョージアやテキサスなどの保守的な南部地域ではペプシの売上はコークに遥かに及ばず、悪くするとドクターペッパーの後塵すら拝している状態であったのだ。この地域の攻略なくして業界ナンバーワンにはなれない。こう判断したペプシはこの地にアラン・ポタッシュを派遣した。

ポタッシュはすぐに南部の人々はコーラを味ではなくブランドで飲んでいることを突き止めた。この地域でのペプシが低迷しているのは味が好まれないからではない、そう考えた彼は大きな賭けに出る。1975年*月、彼はテキサス州ダラスにコカ・コーラ愛好家を集め、ペプシとコークの公開比較実験を実施したのである。システムは簡単で、参加者にはブランドを伏せた2つのコーラが渡され、両方飲み比べて美味しいほうを選んでもらうというものであった。

はたして結果はポタッシュの思ったとおりだった。ペプシのシェアが6%にも満たない地域の人々、それも「自称コークファン」の実に半分以上がペプシを選んだのだ。このあと中立の消費者グループが同様のテストを行ったが、そこでもペプシはコカ・コーラを上回った。このニュースはすぐのアメリカ中に知れ渡り、とくにテストの行われたテキサスではペプシのシェアは倍以上に跳ね上がった。

この結果に大いに気を良くしたペプシは、このテストを"PEPSI Challenge"と名付け長期キャンペーンを展開した。テスト会場も1983年には全米のほとんどの大都市で開かれるまでになり、そのほとんどでペプシは優位に立っていた。このとき使われた黄色地に赤の「Take the Pepsi Challenge!」のロゴはペプシの挑戦のシンボルカラーとなり、その後世界各地に広がったペプシの公開比較実験では同じ色のロゴが好んで用いられた。今年の春に全国で「PEPSI Taste Challenge」が開催されたのは記憶に新しいが、そこでも同じスタイルが受け継がれていたのは興味深い。

このセンセーショナルなキャンペーンでペプシは順調にシェアを伸ばし、アメリカのコーラ市場はコークとペプシの寡占状態となった。しかしこれはコカ・コーラの売上を脅かすには至らなかった。ペプシのシェアの増加は彼らが普段コーラを飲まない人の取り込みに成功したからで、これによってコークの支持者が心を変えることはなかったのである。事実この時期コカ・コーラは僅かではあるが売上を伸ばしている。しかしこのキャンペーンはコカ・コーラの幹部達に対してはこれ以上ないほどの衝撃を与えたのである。

当時コカ・コーラ社内ではコークの調合は「聖なる牛(The Sacred Cow)」と呼ばれ、絶対的なものであった。彼らはコークの味が最高であると信じて疑わず、この伝統のある味が否定されるとは思ってもいなかったのだ。ペプシチャレンジに対する有力な手段を持たなかった彼らは、これまでタブーとしてきた比較広告を始めて採用する。コカ・コーラはついにプライドをかなぐり捨て、ペプシに宣戦布告を行ったのである。ペプシを正式に「敵」と認めた瞬間である。

また社内の研究所では極秘裏に「ペプシに勝てる味」の模索が始まった。オースティン会長の号令のものと甘さを変えた5種類の試作品、Alpha, Beta, Charlie, David, Edward、が作られモニター試験が行われた。このテストで最も評価の高かったのは2番目に甘いプロトタイプ"David"で、これはペプシよりさらに甘いものだった(このためこの計画は後に「デイビット計画(Project David)」と呼ばれた)。結局オースティンはこの結果を製品に反映させる事はしなかったが、コークの味に対する自信は急速に揺らぎ始めていた。

コークの逆襲

低迷を続けるコカ・コーラであったが、1980年2月にロベルト・ゴイズエタ(Roberto Goizueta)が会長に就任すると雰囲気は大きく変わる。キューバのコカ・コーラで化学者として採用されたゴイズエタはカストロの革命後アメリカの本社に移り、そこで高い実行力を買われた人物である。彼はコカ・コーラ社社長にボトラーとの契約問題を3週間で決着させたドン・キーオ(Don Keough)を、またアメリカコカ・コーラの社長にブライアン・ダイソン(Brian Dyson)を指名し人事面での若返りを図った。

ゴイズエタはまず2社内の状況を調査し、大幅な事業の整理を行った。利益をあげていない部門は統廃合し、リストラされた数も少なくなかった。特に70年代に多角化の一環として買収したワイン・スペクトラ社はコカ・コーラのお荷物的存在であったが、彼は米シーグラム社への売却に成功した。その一方で新たなビジネスにも積極的に投資し、1982年1月には7億5000万ドルでコロンビア・ムービーを買収しハリウッドへの進出を果たしている。

また彼はダイエットコークの製品化を積極的に推進した。コカ・コーラはダイエット飲料の重要性を60年代には認識していたものの、ダイエットコーラに「聖なる」COKEの名をつけることに二の足を踏んでいた。当時同社のダイエットコーラ「TaB」は「PEPSI light」や「PEPSI Free」に押されはじめており、訴求力のある新製品の投入が求められていた。ゴイズエタはこのプロジェクトの責任者にセルジオ・ザイマン(Sergio Zyman)を指名した。ザイマンは「コカ・コーラのロビーでペプシを飲んだ」伝説的な男で、彼の実行力と伝統にとらわれないスタイルに期待が集まった。

2年間の試行錯誤の結果、プロジェクトチームはダイエットコークの調合を完成させる。この味に自信を持ったゴイズエタは1982年8月、テスト販売なしのぶっつけでダイエットコークを発売した。このCokeの名を冠するダイエット飲料は社の予想を越えるヒットとなり、年末にはダイエット飲料でトップ、全体でも3位にランキングされるほどだった。右は発売を記念して関係者に配られた記念缶で、その缶上蓋には発売日と「WORLD INAUGURAL PRODUCTION RUN JULY 1982」のメッセージが入っている(ちなみに中身は入っているが、プルタブがないので飲めない)。

こうしてゴイズエタ率いる新経営陣は次々とプロジェクトを成功させていった。コカ・コーラの業績は大幅に改善され、下落していた株価も84年には最高額を更新した。しかしそれはフラッグシップ製品であるコカ・コーラの低迷を救うまでには至らなかった。

マイケルの魔法

この頃PEPSIも新たな指導者を迎えていた。フリトレー出身のロジャー・エンリコ(Roger Enrico)である(ちなみに現在はPEPSICO会長で、氏はPEPSIとサントリーの提携の際に訪日している)。コーラ飲料の売上が味よりもイメージに左右されることにいち早く気付いていた彼はまず全米で展開していたPepsi Challengeを中止した。このキャンペーンで挙げられる成果はあげ尽くしていたし、これ以上の継続はせっかく築いたペプシのイメージを損ないかねない、というのが彼の考えであった。

これに替わるキャンペーンとして彼はジャクソンズをCMに起用する。ご存知マイケル・ジャクソンをリーダーとするこのグループは当事すでに絶大な人気を得ており、新作「スリラー」も高い評価を得ていた。このときの契約金は500万ドルといわれ、これは一つのアーティストに支払われる額としては破格のものであった(余談であるが、このときのジャクソンズ側の代理人はドン・キング、のちにマイク・タイソンのプロモーターとして知られる人物である)

1984年2月、マイケルは「スリラー」で史上最多となる8つのグラミー賞を受賞する。この授賞式の中継で、彼が出演するペプシのコマーシャルが放映された。 このコマーシャルは全国のテレビニュースやラジオ、新聞でも報道され、たちまち全米の話題をさらった。ペプシの若く都会的なイメージはますます高まり、それとともに売上も急上昇していった。右はペプシがスポンサーを務めたジャクソンズ全国ツアーの記念缶である (どれがマイケルのサインか良くわからないが)。

もうペプシには公開テストのような飛び道具は必要なかった。彼らは自力で王者コカ・コーラを追い詰めていったのである。

カンザス計画

1983年の秋、ゴイズエタは一つの重大決心をする。コカ・コーラの味をペプシに勝てるものに変更するというのである。彼はすぐにプロジェクトチームを作り、ザイマンがその責任者に任命された。かれは保守的な重役を説得して回る一方、「ペプシに勝てる味」の模索に全力を尽くした。また市場調査部ではコークの味を変えることに対する市場の反応のテストが行われ、肯定的な結果が得られていた。

1984年9月、彼らの研究所はついに新しいコカ・コーラの調合を完成させた。これはプロトタイプ ”David” をベースに”フレイバーコンプレックス”と呼ばれる新たな調合を加えたもので、従来の製品より甘くまろやかなのが特徴であった。この味についてはデータベースの「Coke II」(後述)を参照のこと。

ゴイズエタはこの新しいコークにすっかり惚れ込んでしまった。また市場調査部のテストでもこれまでにない好成績をマークし、ペプシのファンにも訴求力が高いことが認められた。ついにコークはペプシを倒せるコーラを手に入れたのである。

このコークの成功を確信したゴイズエタは "The Boss” ウッドラフの許可を得るため彼のもとを訪れた。この時ウッドラフは既に95歳で目と耳が不自由であったが、判断力には衰えはなかった。愛弟子ゴイズエタの熱心な説得にウッドラフは何も言わなかった。その代わり一枚の切抜きを差し出し、ある一行を指差したとされる。それは1938年にEmporia Gazette誌の編集者ウィリアム・アレン・ホワイト(William Allen White)がコカ・コーラのすばらしさについて述べた記事で、そこにはこう書かれていた。

“Coca-Cola is …honestly made, universally distributed, conscientiously improved with the years” 「コカ・コーラはきちんと製造されており、世界中に広まっていて、時代とともに良心的に改良されている」。

つまり、ウッドラフはコークの改良を認めたのである。その後この計画はカンザス計画(Project Kansas)と呼ばれることになった

その年のクリスマス、コカ・コーラの重役達はコークの調合変更についての最終ミーティングを行った。ここでの最大の議題は現在のコカ・コーラを生産し続けるかどうかであったが、ゴイズエタはコカ・コーラは唯一最高のものでなければならないとして、「2つのコーク」案に強く反対した。こうしてコカ・コーラはずっと守り続けていた味を変える道を選んだのである(註1)。

The Other Guy Just Blinked

ニューコークの発表を3日後に控えた1985年4月19日、コカ・コーラはマスコミに近々「重要な発表」がある旨を通知した。この時の発表では味の変更に関して何も触れられていなかったが、コークが変わるというニュースはすぐに全米に広がった。独自のルートでコカ・コーラがその味を「より甘く、ペプシ的に」変更することを知ったペプシ陣営は驚き、動揺した。これはペプシに対する最大の攻撃であり、もし彼らの新製品が成功すればペプシはこれまで築いてきたシェアを一気に失うことになる。ペプシはすぐさま反撃を開始する。

まずペプシは4月21日のNEW YORK TIMESには ”The Other Guy Just Blinked” と題したペプシの勝利宣言が掲載した。このタイトルはコークとペプシの睨み合いの中で「もう一人の男( つまりコーク)」が目をつむった、という意味で、後にこのキャッチはエンリコの自伝のタイトルにもなっている(ちなみに邦題は「コーラ戦争に勝った!」)。この記事なかで彼はコカ・コーラのリニューアルは前進ではなく撤退であり、これはコークがペプシのほうが美味しいことを認めたことだ述べた。

また彼ら発表当日、コカ・コーラの記者会見の会場のすぐ近くでペプシの勝利を祝うイベントを開催した。道行く人にペプシが無料で振舞われ、そのなかには会場へ向かう報道記者も含まれていたという。これらの戦略がどれほどの効果的があったかは不明だが、ペプシ側も相当焦っていたことがわかる。

「コークを返せ!」

4月23日ゴイズエタとキーオはリンカーンセンターに記者を招いた。コカ・コーラお得意の愛国的な映像や音楽を一通り流したあと、彼らは「最高の品質がさらに良くなりました」とニューコークの発売を大々的に発表した。そこで彼らは新しいコークの調合はダイエットコークの研究中に偶然できたものであると述べた。コークのプライドにかけて「味覚テストでペプシに負けたから」とは言えなかったのである。

しかしこれが失敗だった。彼らはコークの味を変える必要性を曖昧にした。一般のコークファンにしてみれば、理由もわからないまま大好きな飲み物が奪い去られてしまったのである。たちまち全国からコカ・コーラに対する抗議が殺到し、それは日を追うごとに激しくなった。6月になると消費者ホットラインへは一日8000件の苦情があり、そのほとんどがコカ・コーラが飲めなくなったことへの怒りや悲しみを述べたものであった。

多少の抵抗があることは予測していたゴイズエタでも、これほどの抗議は予想をはるかに超えていた。その上当初順調だったニューコークの売上げは1ヶ月もすると急に落ち始め、対するペプシは過去最高の伸び率を記録した。南部に一部ではコカ・コーラの不買運動まで起こっていた。

市場調査部の調査では、名前を隠した味覚テストではニューコークはやはりペプシに勝っていた。しかしブランドを明らかにしたテストではペプシが圧勝であった。つまり消費者は「ニューコーク」の味ではなくブランドそのものに拒否反応を示していたのである。

王者の復活

7月にはいるとニューコークの失敗は誰の目にも明らかだった。コカ・コーラ陣営は以前のコークを”Coca-Cola Classic” として復活させ、ニューコークと平行して販売することを決心する。コカ・コーラが2つの「Coke」を持ったのは後にも先にもこのときだけである。

7月11日、ゴイズエタとキーオは会見を開きコークの復活を発表した。この中で彼らは初めて調合の変更が近年のコークの低迷が原因であることを認めた。彼らは消費者に対して謝罪と感謝を述べ、これが「撤退」であることを認めたうえで次のように締め括った。

“We love any retreat that has us rushing to our best customers with the product they love most.”(「私達のすばらしい顧客のもとへ、一刻も早く、彼らが最も愛する商品を届けるための撤退なら、どんなものでも大歓迎です」註2

ワシントンが桜を切ったときから、アメリカ人は正直さを最大の美徳とするようになったという。人々は自らの誤りを認めたコカ・コーラ幹部の謙虚な態度を高く評価し、コークの評判は急激に上がった。ペプシの社長ロジャー・エンリコは自伝の中で「コカ・コーラは味を変える必要はなかった。ただイメージを変えればよかったのだ」と述べているが、図らずもコカ・コーラはそれを成し遂げたのである。

またこの会見はコーラ戦争の継続を意味した。ニューコークが発売された3ヶ月の間、ペプシは昔のコークと同じ調合のコーラ「サバンナコーラ」の開発していたが、コカ・コーラがこれほど早く誤りを認めるとは思っていなかったのである。結局タイミングを逃したこのコーラは発売されなかったが、もしコークの復活前に投入されていればコカ・コーラへのとどめの一撃となっていたことは想像に難くない。

Coca-Cola Classicはその後も順調に売上を伸ばし、87年には飲料の王座に返り咲く。その後も僅差ではあるがコカ・コーラがリードしたまま現在に至っている。

このニューコークの失敗の原因は何だったのか。まず一つ目は市場調査の段階でのミスである。彼らは新しい味のコーラが出ることを説明したが、「昔のコークがなくなる」とは言わなかったのである。かれらはコカ・コーラを棚から取り除いたとき人々がどう反応するか予想できなかったのである。

2つめはゴイズエタが消費者とソフトドリンクとのつながりを過小評価したことだ。彼はコークが美味しくなれば人々はそちらを選ぶと疑わなかった。しかし実際はエンリコの言葉を借りると消費者は「他のどの製品よりも、ソフトドリンクのブランドに精神的な愛着を感じて」いるものであり、「アメリカの魂」と謳われるコカ・コーラともなるとその傾向はなおさら顕著だったのだ。ゴイズエタがこの点を間違えたのは彼がキューバ人であったからだとする人もいるが、私はむしろ彼が科学者であったからのように思える。

ゴイズエタ自身が新しい調合に惚れ込んでしまったのも原因のだろう。会長自らがこのプロジェクトを強く推し進めたため、社内での慎重論は押し殺されてしまった。事実ゴイズエタは死ぬまでニューコークが最高のコーラと言ってはばからなかったという。

ゴイズエタが甘くてまろやかなコークを愛した理由について、「I’d like the World to buy the Coke」には次のような記述がある。

“After the soda man hit the pump two times, Goizueta always asked for one more dollop of syrup. The over-mixed soda of Goizueta’s youth in New Haven has much in common with the sweeter, more syrupy taste like New Coke. ”

つまりゴイズエタが幼い頃から慣れ親しんでいたコークは「オーバーミックス」されたものでアメリカのものよりずっと濃く甘いものだった、というわけである。今となっては真相は分からないがなかなか興味深い説である。

復活を夢見て

1986年春、驚異的に売上を伸ばすClassicの影でニューコークの生産が打ち切られた。しかしコカ・コーラはこのペプシに味で勝るコーラを永遠に封印してしまったわけではない。彼らは定期的にこのコーラを「Coke II」という名前でテスト販売し、市場の動向を探っているのだ(93年にカリフォルニアで、2000年には東海岸の一部で試験発売されている)。アメリカ人の嗜好が変わり「Coke」として受け入れられる時代がくるまで、ニューコークは眠りについているのである。


註1 本によっては「コカ・コーラは100年近く守り続けてきた味を変えた」とあるが、これは正確にいうと誤りである。1900年にキャンドラーはコークからコカインを抜く際に味の調整をしているし、第二次世界大戦中にはコストを下げるため安い材料が使われていた。[戻る]

註2 日本語訳は仙名紀訳「コカ・コーラの英断と誤算」より勝手に引用。[戻る]