コーラ白書
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コーラを撮る「コーラ白書を創った名機たち」

中本 晋輔

今回からの新連載「コーラを撮る」は、コーラやそれに関する事を写真を媒体として紹介してしまおうというコーナーである。これまでの「津々浦々」のような旅行記から「RC子日本海〜」のようなコーラグラビア、はてはコーラ撮影に関する小ネタまで、写真とコーラが出てくれば何でもいいというかなりアバウトな企画だ。あまり期待をせずに見守ってやってください。

記念すべき第一回は、これまでコーラ白書を支えてくれた歴代の写真機についてお話ししたい。

■MINOLTA α7700i

実は現在のコーラ白書は2代目である。初代のコーラ白書が誕生したのは今から10年前、私がアメリカから帰ってきて間もない頃だった。そのころ私はまだいわゆる「純粋なコレクター」で、コーラを見つけてきては棚にほりこんでおくだけで満足していた。だがアメリカでCrystal PEPSIやCoke II などの個性的なコーラを大量に入手できたこともあって、一念発起してデータベースを作ろうと考えたのだ。

当時はインターネットもデジタルカメラもなく、媒体といえば紙しかない時代。写真入りのカタログなんて印刷したら100冊ロットで何万円という世界である。たかだか自分用の1部のためだけにそんなものは作れない。ただ、写真ははずせないというこだわりはあった。

悩んだ中本(高校生)は、とりあえずそれぞれのデータとコメントをワープロで打ち出し、そこに写真を貼り付けるという方法を選んだ。今にして思えばかなり稚拙な方法だが、カラーコピーもスキャナも珍しかった時代だし、一部作るには妥当な方法であろう。

アメリカの高校で写真を少々かじってはきたが、コーラの写真、それもカタログに使うような写真は経験がなかった。特に背景の消し方や照明の写り込みの処理が難しく、試行錯誤の連続だったように記憶している。

結局は背景に縦につなげたA3の紙でスロープをつくり、布を被せた電気スタンドを照明にすることで落ち着いた。なかなかアットホームな方法だが、実は現在でもほとんどおなじ方法で撮ってたりする。この10年で私はあんまり進歩してないのかも知れない。

初代コーラ白書の写真を撮ったのは、懐かしのMINOLTAのα7700iだった。画質にはコダワリがあったらしく、フィルムはISO100、時には25(←バカデスネ)を使っていた。スタンド以外の電気を全て消して撮影していたので露光時間は平気で1秒を超え、三脚は必須だった。でもお金がなくてケーブルリリースが買えず、撮影時には息を止めてシャッターを押していた記憶がある。端から見ればかなり不気味な光景だった筈だ。

現像も現像所に出してくれる写真屋さんで「バック白」と注文して出していた。こういっておくと時間はかかるが、背景が白になるように色調を整えて焼いてくれる。これをぺたぺた紙にはって初代コーラ白書の完成である。掲載数は24と少ないものの各データや「私的感想」など現在のコーラ白書と原型はこのとき既に完成している。やはりこの10年で私はあまり進歩していないようだ。

ちなみにこのα7700i号は私が全くメンテをせずに放っておいたためか、現在は激しく調子が悪い。AFを合わせるのに3秒くらいじーこじーこと考えたり、その果てに全然ピントが合わなかったりと散々なのだが、何故かこいつを使うと良いコーラの写真が取れるというジンクスがある。その出来のほどはコーラ四季報のグラビア企画「美人コーラグラビア集」「RC子」で確認して頂きたい。

■CASHIO QV10


QV-10は名実ともにデジタルカメラのパイオニアだった。

その後しばらくは大学受験もあってコーラ白書は放置されていた。だが1995年1月17日、コーラ白書を変える大きな事件が起こる。阪神淡路大震災である。6時前に激しい揺れで起こされた私の眼に飛び込んできた物は、棚から次々と落下するコーラの缶であった。爆竹のような勢いで部屋に飛び込んでくる親を横目に、私は「なんとかせななぁ」と漠然と思った。

その漠然とした思いが現在のコーラ白書の形になるのは2年後、私が大学2回のときだった。当時はようやくインターネットが普及し始め、ホームページという概念が浸透しつつあった。私も大学のNeXTで海外のコーラ関連サイトを見ては心躍らせていた。

当時パソコンに詳しくない人間がホームページを立ち上げるのはかなりハードルが高かった。が、幸運にも2つのブレイクスルーによってウェブ版コーラ白書はすんなりと実現した。ひとつは現在のコーラ白書の外渉兼システム担当である中橋氏の協力。彼は日本橋のファ○トバックで「キワモノ担当」を務めた猛者であり、また阪大NeXT群のSEであり、そして長髪だった(当時)。本書の膨大なコーラのデータベースはひとえに彼の尽力の賜である。ありがとよ。

そしてもう一つは名機「QV-10」である。ご存じの通りQV-10は日本で初めてのコンシューマー向きのデジカメであり、コーラの写真をいかに取り込むかで悩んでいた我々にとってはまさに渡りに船だった。35万画素というスペックでは銀塩カメラには見劣るが、毎回フィルムで撮影して現像に出すことを考えると激しくお買い得だった。

かくして1997年6月、2代目であるウェブ版コーラ白書が完成した。当時コーラ登録数は約300で、その全ての写真をQV-10で撮影した。現在そのほとんどが新しいデジカメで取り直されているが、マイナーで取り直す気のおきない、または缶がどこに行ったか分からないコーラについては今でも当時の34万画素画像が使われていたりする。てへ。

ウェブ版コーラ白書の設立に大きく貢献してくれたQV-10だが、別れの時もやってくる。宮古島に取材に行ったときに、あっさり盗難にあってしまったのだ。新たなデジカメが続々と登場し、QV-10はやや時代遅れになりつつあった当時。猫は死ぬときそっと主人の前から姿を消すという。なくなったQV-10も、あるいは自らの引き時を悟ったのかも知れない。てゆうかちゃんと荷物みとけよAN○のカウンター!

■RICOH DC-2E / RDC7


DC-2Eはリコーお得意の横型デザイン。奇抜といえば奇抜だが、実は使いやすい。

QV-10の欠点は接写に弱いことだった。普通に風景や人物やコーラを撮る分には問題ないのだが、缶のちょっとした表記とか、しょうもない揚げ足なんかを取る(撮る)には接写機能がどうしても必要になる。というわけで次のコーラ白書写真機として白羽の矢がたったのはリコーの「DC-2E」だった。

このカメラの最大の特徴はリコーのお家芸ともいえる強力なマクロ撮影機能。最高1cmまで接写可能というのは当時のデジカメでは群を抜いていた。カメラらしくない平べったいボディやぱたぱたとフリップする液晶などは、変なもの好みの私の心をつかんで離さなかった。画素数は34万から41万へと微妙にアップした。

DC-2Eは約2年間、コーラの写真を撮り続けてくれた。実際320 x 240 pixのコーラ写真ならこの画素数でもまったく問題なく、一部は今でも現役で使われている。去年ソフマップでたたき売られていた兄貴分RDC-7(340万画素)を衝動買いしたが、縮小して画質を比べてみるとそんなに違いがなくてがっかりした覚えがある。もちろん大きな写真ではRDC-7のほうが断然きれいなのだが。

というわけで現在コーラの写真はRDC-7で撮影されている。また四季報の表紙のような気合いの入った写真はNikon FE10とニッコール 50mm F1.4 でまじめに撮っている。個人的には銀塩のほうが好きなのだが、ただでさえ遅れがちな更新をさらに遅らせる訳にもいかず、トピックスや記事の写真ではRDC-7君が頑張っているのが現状である。

■写真の撮り方

たまに「あのコーラの写真、どうやって撮ってるんですか?」と聞かれることがある。はっきり言いましょう。適当です。基本はテープでつなげたA3の紙と電気スタンドで、特別な撮影用の機材を使っているわけではない。

ただ撮影時に愛用しているのは、コムサで買った白いランドリーボックス。これは縦横25cm四方、高さ約40cmくらいのナイロン生地製の箱で、上に丸い穴があいている。これを横向きにするとコーラの缶にちょうどよい撮影ボックスになるのだ。金色の缶など映り込みのはげしい被写体でもかなりきれいに写真が撮れる。これにペイントソフトでちょちょっと補正を入れてやると完成。ボックスは2000円くらいと手頃なので、記念缶をネットオークションへ出すときなどには一度お試しあれ。