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コーラ小説 / いちごミルク
中橋 一朗

人混みが嫌いなので,正月はいつも家で一人で過ごす。今年もそうだった。バラエティー番組の馬鹿騒ぎとか,やけに間延びした時代劇とか,要するにこんな時期でないと誰の目にも止まらないような番組をテレビで眺めたり,ヤケクソみたいに年々分厚くなってくる新聞のクロスワードパズルに挑戦したりするのも悪くない。

そんな怠惰な習慣のせいで,朝からもう6時間もコタツに入りっぱなしだったので,さすがに喉の渇きを覚えて,私はようやく,鉛のように重くなった腰を持ち上げた。頭がくらくらするのを我慢しながら,テレビの上にあった小銭入れを後ろのポケットにねじ込んで,取っ手にすがるように玄関の戸を開ける。何だか特別な感じだ。今年はじめて握るドアノブ。今年はじめて開ける玄関の扉。だったら握り初めとか,扉開きとか,そんな年中行事があってもいい。そしてこれから,記念すべき初コーラといこう。

冬の午後は,すばらしい快晴だった。ビルと人間と車ばかりのこの街も,この時期だけはひっそりとして過ごしやすい。私は角の自販機へ硬貨を何枚か投げ入れ,ぱんぱんと柏手を打ってからコーラのボタンを押した。ごろん。神託とも取れる意味深な音を立てて,いつものように,真赤な缶が吐き出された。電柱と電線とで幾何学的に分割された空を,真白な飛行機がゆっくりと渡っていく。こんな日から旅行とは,随分とお気の毒だ。私はのんびり,コーラを飲む事ができるのに。

ところが,狭い自室に戻ってそれを一口飲んで,私は仰天した。全然違うのだ。それはコーラではなかった。私はやかましいテレビを消して,それから手の中の缶をもう一度眺めた。それはコーラの缶だった。でもコーラの缶に入ったそれは,多分,いちごミルクだと思った。多分,思った,というのは,コーラの缶にいちごミルクが入っているなんていうことは,有り得ないからだ。でもまあ,こんな時代だから,これは誰かの質の悪い悪戯で,つまり私はその被害者なのだとすれば,何となく納得されるような気がした。早い話が,正月早々,私はかつがれたのだ。

それで私は,再び角の自販機まで歩いて,2本目のコーラを持ち帰った。そして今度はそれをガラスのコップに空けた。果たしてコップは,薄いピンク色の液体で満たされた。随分手の込んだ悪戯だ。それとも,もしかしたら,工場で事故があって,不良品が出荷されたのかもしれない。隣で作っていたいちごミルクを,たまたま,コーラの缶に詰めてしまっただけのことなのだ。そんなミスはよくあることだ。だとしたら,角の自販機の中のコーラは,ことごとくいちごミルクに入れ替わっているのかもしれない。

私はついに,3本目のコーラを,大通りのコンビニエンスストアで買い求めた。いつもはビジネスマンで賑わうコンビニエンスストアも,今日は暇そうだった。私はさっきと同じ赤いコーラと,照り焼き味のポテトチップをカゴに入れた。そして念のために,青いコーラもカゴに入れた。それからレジで代金を支払って,店を出た。

こんな天気は滅多にないので,途中の公園でベンチに腰をかけ,私は赤い缶とポテトチップを開けた。ポテトチップはいつものように,塩とアミノ酸の味がした。それが照り焼きの味なのかどうかはなんとも判別がつかないが(唐揚げ味と言われれば,そんな気もする),でも私は,その照り焼き味のポテトチップが一番好きだった。たぶん,種々のアミノ酸の配合のバランスが,私の嗜好と合致するのだと,その時私は考えていた。

私は快晴の空を見上げた。さっきとは違う種類の飛行機が,着陸態勢に入って,ひときわ高いエンジン音を響かせはじめていた。世界はいつもと同じように,正確に稼働している。私のコーラに関する不幸は,単なる事故に過ぎないのだ。しかも,それは至極個人的な。

先ほど買ってきた赤い缶のコーラは,残念ながらこれもいちごミルクの味だった。これほど大規模な事故なら,既に誰かが気付いていてもよさそうだが,こんな時代だから,誰も騒いだりはしないのだろう。実際,私だってこのささやかな事件を,このまま記憶の闇に埋もれさせるだけだ。とにかく最近は,誰でも物分かりがよいのだから。

私は青い方の缶を開けた。そして期待を込めて,一口飲んでみた。でも,缶の中身はいちごミルクだった。私は2つの缶の中身を地面に全部捨てて,空き缶は手近なくずかごに押し込んだ。食べかけのポテトチップは,グシャグシャにして辺りにばらまいてしまった。ハトかスズメかが,鳥肉の味がするそれを,全部食べてしまうだろう。そうしてがっかりして,家に帰った。

★ ★ ★

気が付くと,あたりはすっかり暗くなっていた。あの後コタツに肩まで潜り込んで,コーラがいちごミルクになってしまった原因について考えてみたのだが,考えているうちに眠ってしまったらしい。それも当然のことだ。そんな馬鹿なこと,あるわけがない。いつの時代に,こんな突拍子もないことが起こるというのだ。

私は否定するように頭を振りながら立ち上がった。ひどく喉が渇くせいで,とても不快な気分だった。そういえば,私は結局,朝から何も飲んでいないのだ。真暗なまま,流し台で水道の水をコップに受ける。ただの水でも,いちごミルクよりは随分マシだ。少なくとも今は,いちごミルクはもううんざりだ。

でも,一口飲んで,私は仰天した。全然違うのだ。それは水ではなかった。それはコーラだった。慌ててスイッチを探し,明かりをつけると,蛇口から黒い液体が勢いよく流れ出ていた。私は蛇口に口をつけて,そのコーラをがぶがぶ飲んだ。それはとても旨いコーラだった。程良く冷えて,炭酸の具合もぴったりだった。

この時,私はようやく理解した気がした。つまり,今はただ,コーラがいちごミルクであり,水道の水がコーラであるという,それだけのことだ。何も変わってはいない。その証拠に,新聞は分厚かったし,テレビは下らなかったし,飛行機も飛んでいた。ポテトチップはアミノ酸の配合を保っているし,だいいち,街は今も静かじゃないか。

私は飛びきり熱い風呂をコーラで沸かして,のぼせるまで入った。それから,角の自販機でコーラの缶をもう一本買ってきて,中身のいちごミルクを一気に飲み干した。そして,再びコタツに潜り込んで,朝までぐっすりと眠った。


[四季報 1999年1月号] [コーラ白書] [HELP] - [English Top]
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