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コーラ小説 / 海はなかった
(ぬ)

 駅は,空まで連なる蜜柑畑の山裾にあった。

 スレート葺きの跨線橋を越えた海側には木造の駅舎があり,その向こう側には小さな町が開けている。単線の線路は,海と山との境界の不確かさの中に,溶け込むかのように続いていた。先程までは暖かに車窓から差し込んでいた日差しは,今では僅かに西に傾いて,薄曇りの中で淡く輝いている。
 僕の他にここで降りたのは高校生の男女が数人だけだったが,彼らも早速ホームから姿を消し,ある者は自転車で,ある者は徒歩で,それぞれの家路を急いでいるようだった。僕はこれらの光景を注意深く観察し,慎重に記憶と比較してみたが,それらは良好な一致とはいえなかった。

 都心から3時間ほど普通列車を乗り継いで,この小さな駅で降りたのは,決して気まぐれではなかった。生まれてから5年間を過ごしたこの町は,いくらかの感傷を呼び覚ますものに違いないと,僕は考えていた。けれども実際にここに立ってみると,20年間の空白の間に,僕の記憶の多くは失われていた。この町で僕の想い出を捜し当てるのは,ほとんど宝探しのようだ。
 やがてドアが閉じ,クリーム色と朱色に塗り分けられた2両編成の気動車が,身を震わすようにして走りはじめた。それらがゆっくりと遠ざかっていくと,排気ガスの匂いも徐々に薄まり,微かな潮の香りが感じられるようになった。
 僕は空になったコーラの缶を屑入れに押し込んでから,跨線橋を渡り,薄暗い改札口を通り抜けた。初老の駅員は,まるで僕のことになんか気がつかないかのように,薄曇りの空を眺めていた。当たり前のことだが,僕はこの町にとって,偶然の訪問者に過ぎない。僕がこの町に住んでいたのが偶然であるのと,少しも違わない。

★ ★ ★

 私は夜の街が好きじゃない。この街では陽が沈んでからも,暗闇もなければ静けさもない。必要以上に雑多な人々の全然無意味な活動と,その結果としての喧噪,混乱そして破綻。かつて夜は私の友達だった。けれども今ここでは,全然別人みたいだ。
 仕事を終えて家に帰る時は,いつも夜遅くなる。マスコミの仕事は最初は憧れだったが,5年も続ければ平凡以下だと思うようになってくる。良いものは売れない。作家は締め切りを守らない。そのしわ寄せを食う私達のことも少しは考えてよ。
 そんな愚痴みたいなことを考えながら西通りの人混みを急いでいると,向こうの方にふと知った背中を見たような気がした。夜の街に泳ぐ深海魚の群の中に独り潜む,異質な何か。その何かはすぐに人混みの中に紛れてしまったけど,信号待ちの時に改めて発見して驚いた。それは実に3年ぶりに出会う,服部君だった。

 私達は手近な串カツ屋で乾杯した(私はそういった店が好みなのだ)。服部君はビールを頼んだ。私はお酒が全然飲めないから,コーラを注文した。訊いてみると,服部君は会社を辞めたのだという。でも,どうして?
 「ある日突然,海が見たくなったんだ。ずっと小さい頃,住んでいた町の海。そこには色々なものが流れてくるんだ。青く透き通ったガラス壜。蚊取り線香の空き缶。肥料のポリ袋。ただそこにあれば砂浜を汚すゴミにすぎないものだけど,そうだね,僕にとっては宝物だったかもしれない。それぞれの物語を背負って流れ着いた物たちは,みなそれぞれに,いとおしくて,美しいんだ。」
 服部君はひとつめのビールを飲み干して,続けた。
 「だけどね,普通の会社というのは,海が見たくなりました,っていう理由じゃ,休みは取れない。会社に限ったことじゃない。今僕たちが生きているこの世界ではね,ある日突然海が見たくなるような男は,あまり上手には生きていけないんだ。」
 それが,会社を辞めた理由なの? あまりの馬鹿馬鹿しさに,わたしは少し腹が立った。あなただけが苦労してるわけじゃないのよ。
 でもここで今2杯目のビールに口をつけて真っ赤な顔をしているのが,服部君だった。少しも変わらないわね,そう言いかけて言葉を飲み込んだ時,それを見透かしたかのように彼は言った。
 「...人は変わり続ける。でも,それが望まれた変化でないなら,そこにどんな意味があるんだろう。僕はそのことを考えるんだ。」
 人は変わり続ける。全ては変わり続ける。あの時そう言ったのは,確かにこの私だった。

★ ★ ★

 そこまでページをめくったところで,僕は本をもとの書棚に戻した。なんとなくやり場のない気分を静めるために入った,深夜営業の書店で,何気なく手にとった新書判。「コーラの競作」などという下らない題名以上に退屈な短編が,冴えない顔を並べている。ああ,ますます落ち着かない気分になってしまった。
 僕は妄想の世界に救いを求めることを断念して,酔っ払いの人混みの中を再び歩きはじめた。古い友人に出会うというのは,それが予期せぬものであれば尚更,心が晴れるものだ。けれども明確な自覚を伴うこの鬱の時期に,やや理由ありの「友人」に後ろから呼び止められるというのは,ちょっとした苦痛だった。

 彼女と会わないと決めたわけではない。会いたくないと思ったわけでもない。こうして偶然再会することを,望まなかったわけでもない...。つまりは,全くの茶番だ。

 でもたったひとつ,確実な救いがある。明日には,懐かしいローカル線に乗って,この街を逃げ出すことができる。それは素敵なことに違いないと,今の僕は信じていた。

★ ★ ★

 「これで全部?」
 「これで全部です。先生。」
 「うーん,コーラ小説大賞なんていう企画そのものに,無理があったんじゃないの? こんなのから良いのを選べなんて,無茶もいいとこだよ。」
 「そうですねえ,先生。最初思い付いたときは,けっこういい企画だと思ったんですが,やっぱりもう少しよく考えればよかったと思います。反省。」
 「いや,別に礼子君が悪いと言ってるわけじゃないんだよ。この企画だって,ちゃんと会議を通って正式に決まった以上,編集長や他の人にこそ大きな責任がある。」
 「はあ。」
 「...とはいえ,ちょっとねぇ。せめてどこか少しぐらい,褒めるところがあれば良かったんだけど。」
 「でも,入選はともかく,せめて佳作くらいは選ばないと,一応カタチってものがありますから。先生お願いします。」
 「そうだねぇ。ちょっとじっくり読み直してみるから,明日,また来てよ。今日のところは,ちょっと独りにしてほしい。」
 「そうですか。じゃあ,お願いしますね。先生。」
 「ああ,なんとかしてみるよ。」
 「じゃあ,先生,失礼します。わたし,会社に戻ってますから。」

 ...とはいったものの,なんとなく,かったるい。
 地下鉄が桜木の駅に近づくにつれて,なんだか憂鬱だ。「桜木の駅で降りて,会社に戻る。」ただそれだけのことが,今日ほど困難に思えたことはない。
 やがて列車は,駅についた。ドアが開いて,プラットホームの風が流れ込んでくる。肩まで伸ばした髪が,さっと翻った。
 それはまるで潮風みたいだった。わたしは決心して,ドアが閉まるまでずっと,風を感じていた。

★ ★ ★

 人間の感覚というのは不思議なもので,もう何十年ぶりかに訪れるこの街で,僕はほとんど道に迷うことなく,海岸を目指していた。ほとんどは何の記憶もない,見知らぬ風景ばかりだ。けれども曲がらなくてはならない角に差しかかると,僕の心の何処かでアラームが鳴る。あるいは僕の手足それ自身が,道順を覚えてしまっているのかもしれない。僕はそれが少し嬉しかった。
 やがて,日に灼けたコンクリートの防波堤が見えてきた。その向こうに,海が見える。そのはずだった。けれども---,

 防波堤の階段を昇りきると,その先に広がっているのは,マッチ箱のような住宅の群れ。子供用の自転車。白い洗濯物。つつましやかな生活。そういったものだった。僕の海は,時の流れの中に埋められてしまい,区画整理された住宅地へと変貌していたのだ。
 「見たところ,海は無くなっちゃったみたいね。服部君。」
 突然後ろから声を掛けられて振り向くと,古い「友人」がそこにいた。僕は少しだけ考えて,答えた。
 「全ては変わり続ける。そう言ったはずだよ。それよりどうして,こんなところに居るのかな?」
 「作家のセンセイの気まぐれで,暇になっちゃって...。それに,海が見たいっていうのは,仕事をサボるには十分な理由でしょ。」
 全くその通りだ。でも,全くの空振りだった。そう思って,僕は笑った。彼女も笑った。
 僕は言った。すべては,茶番みたいなものさ。構造は多少複雑だけど,結局は下らない小説の中に,僕たちは生かされている。
 彼女は,そうね,と言って,緑のハンドバッグをくるくると回した。

[四季報 2000年4月号] [コーラ白書] [HELP] - [English Top]
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